どんなひとがやってるの?

村上佐知子(旧姓 梅澤)

代表の生い立ちと開業までの経緯

1979年

2人姉妹の次女として誕生。

6人家族。祖父・祖母・父・母・姉のちびまる子ちゃんのような家族構成の中で育つ。
祖父は大工、父は後を継がずに旅行業 母はオーダー服を作る職人。
近所に住んでいた綺麗なお姉さんの影響で4歳から12歳まで日本舞踊(民謡)を習う。
同じく4歳からピアノを習う。嫌で仕方なかったが、母が恐くて辞められず、結局22歳まで続け、最近もまた趣味で始める。

1992年

中学校入学。
3年間バスケットボール部で脚力と精神力を鍛え、体育・美術・音楽 で内申点を稼ぐ。

1995年

高校に入学。
3年間バスケットボール部で上下関係を学ぶ。
中学3年生の時に担任だった女性体育教師にあこがれて将来は体育の先生になりたいとスポーツ強化高へ進学するも
入学と同時に周りのレベルの高さに体育教師になることを諦める。初めての挫折。
目標がないまま進路を決めることになり、昔 実家の増築計画を祖父と話し合ってわくわくしたことや実家のリフォームが思い通りにできなかった経験を思い出す。
工作が好きだし、建築学科ダメもとで受けてみるか?という軽い気持ちで希望を出し、運良く合格。

1998年

東海大学建築学科に入学。
4年間模型作りや課題に追われる日々。今思えばもっと真剣に授業を受けておけばよかったと思う。
インドにリュックサックを背負って自由旅行に行き、5キロ痩せて帰ってくる。
言葉が通じなくても大抵の事は何とかなるんだと自信をつける。

2002年

超就職氷河期の中、やっとリフォーム会社に就職。
仕事はショールームのご案内と、仕様決め係。あらゆる建材・住宅設備の知識を得ることができた。
2級建築士を取得。
リフォームの提案は新築の構造がわからないとより深いところの提案ができないことに気づき、現場監督を志願するも断られ、退職。

2005年

建売住宅の設計募集に現場監督希望で面接をしてもらう。
3年くらい現場監督をやってみて、そのあと設計へということで入社。
まるで異国の地に来たかの様な建設現場の独特な用語に苦しむが、インド旅行を思い出しながら気合で乗り切る。

女性の現場監督は当時珍しく、仮設トイレに入れるのか?作業着が着れるのか?などという心配をされて申し訳なく感じた。
良い先輩と上司に恵まれて、がむしゃらに経験を積む。
大工の旦那さんと結婚。

2008年

注文住宅の設計業務をやるチャンス到来。転職したが、営業を経験してからということで、営業を1年間経験する。
営業をやりたくなくて成績も悪かったため、仕様決め係として兼務することに。今までと違った無垢材を使った家づくりに刺激を受ける。
そのうちに現場監督が足りないという状況になり、現場へ再び出ることに。
現場監督の仕事も好きだったため、結局設計はできないまま9年が経つ。
その間に女の子2人を出産。
子供をおんぶして現場に行くこともあり、働く母さんという裏のあだ名がつく。
念願の自宅を新築する。自分で設計・現場監督し、大工は旦那。
とにかく四角い家という旦那の要望があり、とてもシンプルだが素材にはいろいろこだわった家が完成。
自宅を設計した経験からもう少し設計をやってみたいなという気持ちが大きくなり、現場監督をやりながら悩む日々。

2017年

このまま設計がやりたい気持ちで死にたくない!と 設計事務所へ転職。
いろいろなことにチャレンジさせてくれる社長で、設計の実務が少ない自分にもチャンスを与えてくれた。
設計事務所ということもあり悪条件の敷地が多く、諦めない粘り強さと申請や設計力を鍛えてもらう。
そして営業という仕事が大嫌いだった私が 設計ができればそれが営業になるということを教わる。
後に自分が設計をした物件の工事まで手を出したくなり、設計事務所だけと工事部を立ち上げる。
今までの監督時代に知り合った職人さんたちの協力があり、1人で営業設計・現場監督・アフターメンテナンスまでやるスタイルが成立!
一般的には分業した方が効率が良く、沢山の家を建てられる。しかし、一人がすべてを担当すると棟数は少ないが、想いの詰まった家づくりができる。
対職人さんにも直接指示ができ、お客様との間に設計や営業がいないことは業務の効率化にもつながるのでは!と思ったのがきっかけ。

2023年

子供の中学入学を機に、年間棟数を抑えて自分ができる範囲で仕事を続けていきたいと思うようになる。
一人で工務店をやりたいという気持ちが大きくなり独立する決意をする。

2023年10月


つみ木工務店 開業